『茗荷谷の猫』 木内昇 / 人の生き様から自分の生き方を見つめる
『茗荷谷(みょうがだに)の猫』は9つの短編からなる連作である。
連作はいくつか読んだことがあるが、それはたいてい同じ時間軸で繰り広げられる物語の集まりだった。
しかしこの『茗荷谷の猫』は、江戸時代から昭和30年代までの長い時間の流れの中で、日常の暮らしのほんの一瞬で繋がった(次の瞬間、繋がりは消えてしまっている)9人の生き様を描いた連作である。
名もなき凡人の生き様。
壮大な志を抱き世に功績を残したとか、そういうすごい話では全然なく、ただただ普通の人が普通に悶々とした人生を送った(送っている)という話。
物語が唐突に終わるので、ストーリーを追っていると不完全燃焼になる。
作品に登場する人物の生き様を目の当たりにし、読み終えた後はそっと自分の生き方と照らし合わせるみたいな、何ともいえないしっぽりした読後感が新鮮だ。
日本語で綴られた文章っていいなぁって思ったのも久しぶり。
いつもは次の展開が知りたくて割と早いスピードで読むけれど、本作に関しては、気がつけば今までになくゆっくり読んでいた。
ひとつひとつの文章を丁寧に読みたいと思った。
作者が丁寧に書いた文章は読者も丁寧に読むべきだし、丁寧に読めば作者がその一文で描きたかったものに近づける気がして、味わうようにゆっくり読んだ。こんなことを思いながら読んだのは初めてかもしれない。
ゆったり流れる時間、そこでこだわりを持って生きる人々を丁寧に描いた9作品はどれも興味深かったが、一番おもしろかったのは『隠れる』だ。
親の遺産で気ままな隠遁暮らしをするつもりが、なかなか世間は放っておいてくれず、全てが本人の望まぬ方向に進んでいってしまい、最後は俗世間に呑み込まれてしまう、というような話。
この話にだけはオチがある。笑えるオチ。喜劇だ。本人にとっては悲劇だけど。
思い通りに生きることは難しく、強い意志やこだわりを持っていてもどうにもならないことがある。人の一生は大きな波(人類の営みという波)に呑み込まれ、一瞬で消えてしまう。それでも時は変わらず流れ、人類の営みは脈々と続く。
そんなことを感じた一冊だった。
『茗荷谷の猫』は、いわた書店の一万円選書で選んでもらった本(9タイトル11冊)の一冊。
奇抜なストーリーもなく、あっという間に読み終わる(だろう)短編、そして最近は主に海外ミステリーを読んできたので、日本の小説を楽しんで読めるか心配だった。
でも、大丈夫だった。
というより、日本の小説ってこんなによかったっけ?ってなった。
作者・木内昇(きうちのぼり)の作品は初めて読んだけど、好きかも。ツボにはまった。
比喩といい、情景描写といい、すこぶる心地いい。
こんな比喩はどうだろう。これは心地いいというより、ほほーって感じ。
松原はなんと言ったものか困惑し、歯茎に傷を負った者のようなぬるぬるとした笑みを浮かべた。
こういうのって翻訳ものでは滅多にお目にかかれないと思うのだけれど、どうだろう?