『少女パレアナ』 大人も考えさせられる児童文学 出会いの大切さを教えられた
『少女パレアナ』 エレナ・ポーター / 村岡花子訳 を読みました。
海外文学というか海外の小説は結構好きで、どちらかというと日本の小説より海外の小説を読む機会が多いのですが、どうしてもジャンルが偏ってしまいます。翻訳されているのがミステリーやSFが多いからでしょうか。違うジャンルが読みたいとなると一気に古典作品になり構えてしまいます。それはそれで好きなんですけど。
そんなところへ「文学どうでしょう」でこちらの作品が紹介され、飛び上がってしまいました。そうそうこういうのが読みたかったの。古典でもなく、ミステリーやSFとも違う最近の小説。1913年の作品だから最近でもないけれど。
孤児パレアナが「何でも喜ぶ」ゲームをして逆境を跳ねのけ、周りの人たちをも幸せにしていく絵に描いたようなハッピーなお話です。
絵に描いたような。言い換えればわざとらしい。嘘くさい。出来過ぎ。。。
児童文学?子供向けの道徳の話?なんて思いながら読み始めましたが、さにあらず。
確かに、逆境でうれしいことを見つけて喜ぶなんて普通はできないし、できたとしたらそれほど逆境じゃないということ。本当に辛いことは素直に受け止めた方がいいような気もします。
それはそうなんだけど、パレアナが二度と歩けないかもしれないとなったとき、町のみんながパレアナに喜んでもらおうと次から次へとやってきてパレーに伝言をお願いする、そのシーンに胸が詰まり涙腺が崩壊しそうでした。パレアナとパレー、ナンシー、町の大勢の人々。人と関わり、人を支え、支えられるこの関係性に思い至り、私もこうありたいと思いました。
パレアナが「自分の生きる時間」のことをパレーに説明する場面があります。呼吸してるだけじゃ生きていることにならない、自分の好きなことをするのが生きるということ、と。11歳の少女が堂々と言い切る清々しさ、純真さに、世間のドロドロにまみれた我が心も洗われた気がしました。
児童文学は児童のためのものって固定観念がありますが(少なくとも私には)、大人では気がつかない物の見方・考え方に驚かされ、自分をリセットするきっかけになるような気もするので、これからも機会があったら読んでみたいと思います。
自分の望む状態ではないときに喜びを見つけられたら、きっと少しは気が楽になる、かも。