行けるところまで行ってみよう

1年たつのは早い。早すぎる。ここまできたら行動あるのみ。後悔先に立たず。

『やがて訪れる春のために』 はらだみずき / 次の世代を生きるものにバトンを渡せ!

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「ハルばあ」から「まめ子」にバトンは渡った。

これでいいんだよ。


真芽(まめ子)は小学校を卒業するまで両親と弟と祖父母の6人暮らしだった。手狭になった家を建て替えるというとき、両親と祖父母の間で何らかの問題が生じ、真芽ら4人は祖父母を残して街を出た。その後13年間、真芽は一度も祖父母の住む家を訪ねることはなかった。祖父が亡くなり祖母(ハルばあ)ひとりが住む家を訪れたのは、ハルばあが骨折して入院したと母から知らされてから。おばあちゃんっ子だったまめ子が記憶を頼りにハルばあの家を訪ねると、庭は荒れ放題、家の中は衣類が散乱し、テーブルの上には土が盛られていた。ハルばあは認知症?・・・たくさんの花が咲いていた庭をもとに戻すべくまめ子はガーデニングを始める・・・という話。


症状を遅らせることはできても完治は難しい認知症。突然突きつけられる現実に戸惑う家族。施設への入所や家の処分を巡り家族間で生じる諍い。本人のことなのに本人抜きに話が進んでしまう悲しい場面もあるけど、読み終わるとやさしい気持ちになれる。

物語は現実より遥かにできすぎていて、そんなに調子よくいかないよって思うことが起きたりするんだけど、物語なんだからこういうことがあってもいいじゃん。っていうか、あってほしい。

願望かなぁ。全然白々しくない。

どうしてかなと考えたとき、これは命が尽きようとしている者から若者に、順番にバトンが渡されているからなんだって妙に腑に落ちた。

人はいつか必ず、平等に、終わりを迎える。それはもちろん悲しいことだけど、順番があって、体が徐々に衰えていって、命が消える前に、その人が大切にしていたことや守りたかったものを次の世代を生きる若者に託せるなら、それはそれで大往生なんじゃないかって。

『やがて訪れる春のために』では、ハルばあはよくなって家に戻れるかもしれないし、この先どうなるかわからないけど、まめ子がハルばあのことを認知症と決めつけず、ハルばあの気持ちを受け止め、そこに自分の将来も重ね合わせているところが、穏やかで清々しく感じるんだろうと思う。

年月とは、あらゆるものを容易にのみこみ、あっけなくかたちを変えてしまう。そういうものかもしれない。

だけど、そうなったのにはそうなった理由がある。決めつけちゃいけない。思いを巡らせることが大事なんだ。