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『火星へ』 メアリ・ロビネット・コワル / 宇宙SF色が濃くなって、さらにおもしろくなった

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『宇宙へ』よりずっとおもしろいじゃん。

ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞受賞の『宇宙へ』よりおもしろいってどういうこと?! 私の感性がおかしいのか?


物語は前作『宇宙へ』のラストから3年後、主人公の女性宇宙飛行士エルマ・ヨークが月面から地球に帰還するところから始まる。月面にはコロニーが建設され、国際航空宇宙機構(IAC)は次なるミッションとして火星探査に乗り出した。そんな中、エルマら宇宙飛行士が乗った往還船が地球ファースト主義者に乗っ取られてしまう。その後なんだかんだといろいろあって、エルマは火星への初の有人ミッションに参加してほしいと要請され・・・という話。

SFなんだけど、時代は過去。各章の冒頭に引用されている新聞記事(暴動、ハリケーン、社会問題など)の大半が実在の記事をベースにしているせいか、『火星へ』で起きる出来事が現実であるかのような錯覚、フィクションとノンフィクションの区別がつかなくなってしまい、何度もはっとさせられた。


火星へ行って帰ってくるのに3年かかる。その間地球に残された家族は?

宇宙船という狭くてプライベートのない空間で他人と生活するのはどんな感じ?

何かあっても逃げ場がないよね。

そう、『火星へ』で起きるその「何か」は、人種差別、性差別、個人が抱える精神的問題だったりする。

宇宙飛行士間の人種差別(非白人に対するあからさまな差別)、女性宇宙飛行士=広告塔のような認識、宇宙飛行士が向精神薬を服用することの是非など。

読んでいて気づかなかったけど、どうやら作者はトランスジェンダーについても問題提起していたようだ。これに関しては巻末の歴史ノートを読まないと絶対にわからない。

今でこそトランスジェンダーをカミングアウトすることはめずらしいことではないが、当時それをすれば100%宇宙飛行士にはなれなかっただろう。

1960年代という時代の特徴を鋭く捉え、物語に取り入れ、現代でさえも実現していない有人火星ミッションというSF枠でストーリーを展開させている。おもしろくないわけがない。

宇宙船のエンジン噴射、船外活動、司令船と着陸船の応答や復唱する様は心地よい緊張感があり、ヒューマンドラマ以外の宇宙を感じさせる場面が多かったことも、前作『宇宙へ』よりおもしろいと思えた要因か。


読んでいてゾッとした場面を2つばかり。

宇宙で亡くなった人をどのような形で弔うか。これは読めばわかる。

地球環境が悪化し火星への移住が必然となった場合、地球上の全員が火星に行くことはどう考えても不可能で、だとしたら優先順位で誰が先に行く? いや、誰が残る? 残される?

怖いね。何の小説だったか、そういうことを描いたSFがあったよね。神林長平だったかな、違うかも。やっぱりここでも人種とか民族とか宗教や性とか何かの基準でふるいわけられそうで怖い。

ちなみに、読んでいていいなぁと思った場面もひとつ。

世の中には、たとえ憎らしい仇敵であっても、けっしてひとりで耐え忍ばせてはいけないことがある。(エルマのパーカーに対する思い)

辛いことがあったとき、ひとりで耐えて何とかしようと思ってしまうけど、もし周りに自分のことを見てくれてる人がいて、その人が何をするでもなく、ただ手を差し伸べてくれたら、そこにいてくれたら、きっと少しは心が軽くなる(こともある)。

なんかエルマの優しさがほろっときた。エルマとパーカーの関係性も気になるところ。


いつの日か、人類は火星に着陸することができるのだろうか?