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『死者の代弁者』 深く重い読後感、人類と異星人が共存する姿が見える

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これは『エンダーのゲーム』の続編じゃない。

読んでいる最中も、読了後も、まったく別物だと感じた。

これは一つの独立した宇宙&異星人S Fだ! 異星人S Fってジャンルがあるとしたらだけど。

『死者の代弁者』(新訳版) オースン・スコット・カード

『エンダーのゲーム』がゲームとバトルで繰り広げられるハイスピードな冒険小説としたら、『死者の代弁者』は人類と異星人の交流、共存をスローな時間の流れで考えるヒューマンドラマだ。

(簡単なあらすじを紹介するが、『エンダーのゲーム』のラストから続く物語なので未読の人は要注意)


異星人バガーを絶滅させたエンダーは、人類が初めて接触した知的生命体を壊滅させたことを悔い、罪を償うため旅に出る。そして、ある惑星で女王バガーの繭と出会い、いつの日かバガーに新しい安住の地を見つけることを約束する。それから3000年。人類は第二の知的生命体ピギーを発見する。バガー虐殺の二の舞にならないよう、人類はピギーとの接触を厳格に制限した。その頃エンダーは「死者の代弁者」として真実を語るため恒星間を旅していた。相対論効果によって3000年後のエンダーはまだ30代半ば。ピギーの住むルシタニア星から、ある人物の代弁をしてほしいと依頼を受けたエンダーはルシタニア星にむかう。エンダーに代弁を依頼したノビーニャの秘密とは・・・という話。


『死者の代弁者』は1章〜18章で構成されている。

その1章「ピポ」がなかなか理解できない。出ましたSF地獄。

まず登場人物がややこしい。本名も通称もややこしいから一致しない。ピポ、リボ、ミロ、エラ、オリャド、クァラ、グレゴ、、、もお何なんだよって感じ。

でもそれは1章を通過するまで。その後は不思議とするする読める。気がついたら下巻に突入。一気にラストまで行ける


『死者の代弁者』には戦いの場面は一切ない。

その代わり、エンダーの罪の意識、悲しみと悔恨、贖罪に生きる姿などが、重く、深く描かれている。どこか宗教的とも感じたけれど。

カトリック司教と代弁者の対決も見ものだ。

カトリック教では告解室で司教に告白すれば許される一方、代弁者エンダーは公衆の面前で真実を暴露する。その結果どうなったか。暴露された人物はそれまでの呪縛から解放された。

真実を語るとはそういうことなのかと思った。

暴露された本人、その人を取り囲む近しい人々、遠巻きに見守る人々、見て見ぬふりする人々、無関心な人々、それら全員に突きつける真実はとても重い。そこから人々は考えなければならない。人としてあるべき姿を。


終盤に明かされるピギー族の生殖方法や生態系は驚くべきもので、さすがにリアリティーに欠けるんじゃないかと一瞬思ったが、なにせ異星人だから何でもありと思うことにした。

人類の常識や進化の過程と同じである必要はないし、案外、地球以外の惑星に住む異星人はとんでもない方法で生存し子孫を残しているかもしれないのだから。


異類学者はなぜ殺されたのか。そういう側面から読むとミステリー小説でもある『死者の代弁者』。

宇宙SFであり、異星人SFであり、ミステリーでもあり、ヒューマンドラマでもある。

『エンダーのゲーム』の続編であり、単体でも楽しめる小説だ。予想に反しておもしろかった。得した感じ。


(映画『エンダーのゲーム』を観た感想)

やっぱり「小説 > 映画」の公式は揺らがなかった。

でも、バトル・ルームや卒業試験(実は本番の戦闘)の映像は迫力があった。文字では伝えきれない効果は確かにある。特に受け取り手が準備不足の場合は。私のように。

そして今回もやっぱり思った。

小説と映画でストーリーが違うのは仕方がないのか?